彼らは奇跡
高校生の頃から実家に猫がいたのだが、結婚して家を出ても、やっぱり猫を飼いたいと思っていた。
なぜかというと、金魚、ハムスター、ウサギ、カメ、犬、猫と色んな動物を飼ってきた、猫が一番、私の心の琴線に触れた生き物だったからだ。
まず、見た目が可愛い。そして、飼う前に想像していたのよりずっと賢い。
人間の言うことを聞くという意味の賢さではなく、むしろ頭がいいからこそ、他者の命令には従わないのだという感じがする。そんな気高さを持っているのに、ゴロゴロ喉を鳴らして甘えてくれたり、あざとい仕草でこちらを魅了する。自分が可愛いということを、あれは確実に理解していると思う。
それに人間の言葉を、人とほぼ同じレベルで理解しているように感じる。言葉を交わすことはできなくても、猫といると、会話しているような感覚によくなる。
フワフワの体毛は温かくて、お日様の匂いがする。
瞳はガラス玉のように美しく、ころんと丸い手は、見ていると胸がきゅうっとつねられるほど愛おしい。
とにかく全てが可愛くて、魅力を挙げればキリがない生き物だ。まさに神の作りし造形美だと思う。
しかし、私がそうやって猫を愛しても、猫のほうは常に私のことが嫌いだった。
理由は、私が猫を好きすぎるせいだ。
猫を見ると、「か・わ・い・い~~~~!!!」と心の中で雄叫びをあげ、目をギンギンに光らせながら近寄っていく。そのとき発する並々ならぬ波長が、猫の危機察知レーダーに引っかかるのだろう。
野良猫はもちろんのこと、実家で飼っていた愛猫ですら、私を避けた。私がやたらめったら抱いたり、吸ったりするせいだ。
それに今思えば、世話はほとんど母親に任せっぱなしにしていた。なんとも身勝手な可愛がり方だ。あれでは懐かれなくて当然である。
そんなだから、結婚後に猫を飼いたいと思っていても、望み薄だった。
私に飼うスキルがないという意味ではない。母のお世話の仕方を見ていたから、同じようにする自信はあった。
望み薄というのは、単純に、運命の子と出会えないのではないか、という懸念だ。
実家の猫は、公園で犬の散歩をしていたときに捨てられているのを発見し、拾った子だった。そういう経験をしているから、自分が飼うのも絶対に保護猫、それも外で拾った子と決めていた。そのシチュエーションが、最も私の庇護欲というか、母性と呼ぶべきものを刺激する気がしたのである。
だが肝心の猫のほうが私を嫌いでは、このシチュエーションは成立しづらい。
結婚し、主人と一緒に住みはじめた場所は、野良猫の多いところだった。その状況に歓喜した私だったが、案の定、どの猫も私を見ると、近づく前に逃げていく。
これは無理っぽいなあ、と思った。私が猫を飼うとしたら、保健所や譲渡会で出会った子を引き取ることになるだろう。
それも悪くない。むしろ社会貢献にもなって、すごくいいことじゃないか。
とはいえ新生活が始まったばかりで、家事と仕事の両立や、自分の世話をするのにさえまだ慣れていないときである。
いずれにせよ、今すぐ猫を飼うのは無理だ。
縁というのはこちらが望んでやってくるものでもないし、神さまに祈りながら、気長に『そのとき』を待つことにした。
*
主人との生活が始まって間もなく、待ちに待った新婚旅行へ行くことになった。
行き先はパラオ。
海好きの私が、パラオの海の映像を見てひと目惚れし、何年も前から行きたいとずっと願っていたからだ。
グアムやハワイと違って、ホテル以外はほとんど観光地化されておらず、手つかずの自然に溢れるパラオは、本当に素敵な場所だった。
そこでの滞在中、島をぐるっと一周し、ボートに乗ってワニを見に行くというツアーに私たちは参加した。
ツアーがひと通り終了すると、そのツアーを主催している人たちの事務所のようなところでバーベキューをする。そこでは犬が2匹飼われており、さらにフルーツバットというコウモリまで、餌付けして放し飼いにされていた。
そして。
なんと、猫もいた!!
城と茶色のハチワレで、外国の猫らしく青い目をしている。あまりいいものを食べさせてもらっていないのか、実家の愛猫とは比べ物にならないほどほっそりしていた。
その子がニャーニャーと鳴きながら近づいてきたので、抱き上げてみるとちっとも嫌がる素振りがない。それどころか、喉を鳴らして喜んでくれる。
名前を聞くと、『セクシーちゃん』というそうだった。
なるほど。確かにしなやかで、セクシーな雰囲気がある。
自分に懐いてくれる猫なんて本当に珍しいので、私はこのセクシーがとても気に入った。
だからそこにいる間、ほとんどずっと抱っこしていた。
こんなに可愛いのに、他のツアー客は彼女に見向きもしない。
中には私が抱いて歩いていると、「私、猫アレルギーなんだよね…」と嫌な顔をする女までいる始末だ。
草木がボーボーの場所で放し飼いにされているため、清潔な室内で飼われている猫に比べると、セクシーはちょっと汚れている。
だからあんまり触ってもらえないのだろうなと思った。ひょっとすると、汚いと言って追い払われることも多いのではなかろうか。
そう考えていたら、彼女が不憫になった。
だいいち、いかにも適当な飼い方だし(あくまで日本の感覚からすれば、だが)、あまり可愛がられていないようにも見える。
うちの実家の猫なんか、飼い主に平気で反抗するのに、毎日おやつをもらって、でかい図体を大の字にして寝転がっているというのに。なんという差だろう。
無性に切なくなってきて、私はこのままセクシーを日本へ連れて帰りたくなった。
しかし、さすがにそれは現実的ではない。手続きの仕方がわからないし、検閲はどうするのか。
それに可愛がられているように見えないといっても、実際のところはわからない。この子をくれと言っても、断られる可能性だってある。
バーベキューを食べながら散々悩み、私はセクシーを連れて帰るのは諦めた。
でも、
『ここには動物病院もないし、栄養価の高いキャットフードもない。この子はたぶん、長生きできないだろうなあ』
と思い、別れる際、彼女を抱き上げて心の中でこう言った。
『もし死んじゃったら、あなたさえよければ、海を越えて私のところにおいで』
後ろ髪を引かれるとは、まさしくああいうことを言うのだろう。
軽い体を床に下ろし、バイバイ、と手を振るとき、苦しくて仕方なかった。
セクシーはこちらを追いかけてくるでもなく、ただこちらをじっと見ている。
振り返ったらもっと辛くなる気がして、背中を向けた後、私は一度も振り向かずにそこを去った。
*
帰国後もしばらくセクシーのことを思い出す日が続いていたけれど、仕事をしながら家のこともする生活は予想以上に忙しく、過ぎたことを振り返る余裕がなくなっていった。まさに『忙殺』と呼ぶにふさわしい。
そんな生活を続けて1年が過ぎ、初めての結婚記念日のことだ。
その日はたまたま日曜日で、私も主人も仕事が休みだったので、お気に入りのフレンチレストランを予約し、久々にゆっくりデートした。
暗くなってから、ふたりともほろ酔いで帰ってきたとき。
家の近くに、一匹の猫がちょこんと座っているのが見えた。
初めて見る子だった。先述のとおり野良猫の多い場所だったので、よく見かける猫の姿は覚えていたのだ。
黒白のハチワレで、よく見ると少し小さい。子猫から大人になりかけている段階のような印象を受ける。
私を見ると逃げ去っていく猫ばかりがいる中、なんとその子は小走りで近づいてきて、家のほうへ向かう私たちの前を先導するように歩きはじめた。
足を止めると、ニャ~と鳴いて尻尾を巻きつけてくる。
あまりの人懐っこさに、どこかの家の猫が逃げ出してきたのではないかと疑った。
なんにせよお腹を空かせているように見えたので、そのときは餌だけ与えて、しばらく様子を見ることにした。
そしたら次の朝、出勤前にその猫が再び現れた。
メールで主人にそのことを知らせたら、主人が家を出たときも、大喜びで駆け寄ってきたという。
そのときふと、あの子は運命の猫なんじゃないか、と思った。
でも野良にしてはあまりにも懐っこすぎるし、やっぱりよその家の子ではなかろうか。そのことが引っかかって、なかなかうちの子にする決心がつかなかった。
けれど、次の日も、また次の日も、その猫は現れ、可哀想だから餌を与えるというのが数日続く。
そうしているうちに、
「仮によその家の子だとしても、放し飼いにして、あんなにも飢えさせているのはまともな飼い主ではないよなあ…」
と思うようになってきた。
また、
「私にしたって、餌だけ与えているのは無責任だ。もしあの子が妊娠でもしたら、一気に野良猫が増えてしまうわけだし。それに数年もすれば、今住んでいるところは引っ越すだろう。そうなったらあの子を放っていくことになる。そんなことできる? いや、できん」
とも考えた。
つまりだんだん、保護して飼う気持ちが固まってきたわけである。
主人と話し合い、「あの子を飼いたい」と正直に告げた。
すると主人も、そういう気持ちになってきていたようだった。餌をあげた後、家に帰る私たちをじっと見ているのが、後ろ髪を引かれて仕方なかったという。
そう決まれば話は早い。
次の休日、私は昼間からその子を探した。すると、物陰で涼んでいるのをあっさり見つけ、買ってきたオモチャを見せたら喜んで走ってきた。
本当に野良猫なのだろうか…と、また疑念が湧いたが、数日間観察し続けた結果、やはり完全な野良であることが判明している。
他の野良猫はみんな警戒心が強いのに、なぜこの子だけがこんなに人馴れしているのかは、ただただ謎でしかなかった。
そうして無事捕獲して家に連れて帰ると、さすがに驚いたのか、家の中でしばらく鳴きまくっていた。
落ち着かせるため抱っこし、
「今日から一緒に暮らしたいなと思うの。うちの子になってくれる?」
と問いかけたら、
「ニャッ」
と可愛らしく鳴き声を出す。
え、今返事したよね…? と驚きつつ、まずお風呂に入れることにした。
いくら人懐っこいとはいえ野良猫なので、さすがにお風呂は嫌がるだろうと、負傷も覚悟していたのだが、全く鳴かずに大人しくシャンプーとドライヤーもさせてくれた。
ご飯をあげるとしっかり食べるし、家の中を大人しく探検している。
さらに驚いたのが、夜寝るとき、私たちの布団の間にやって来て一緒に寝はじめたことだ。
まるで前から家にいたかみたいに、初日からあっさり馴染んでくれた。以前からうちに来ることが決まっていたかのようだ。
しばらくして、ちゅらと名付けたその猫との生活に慣れてきた頃。
ふと新婚旅行の思い出に浸りたくなり、アルバムを取り出した。するとそこに、パラオで出会った、あのセクシーの写真があった。
「そういえばいたなあ、こんな可愛い子。家に連れて帰りたくて仕方なかったんだよねえ」
としみじみ思った後、「ん?」となった。
よく見ると、ちゅらによく似ている。色は違うけれどハチワレだし、しなやかでほっそりとした体型もそっくりだ。
するとそのとき、唐突に思い出した。
別れ際、セクシーに『もし死んじゃったら、海を越えて私のところへおいで』と言ったことを。
まさか――。
見れば見るほど、ちゅらとセクシーの姿が重なる。
名前だって、ちゅらというのは沖縄の言葉で『美しい』という意味だ。セクシー=魅力的という意味と似通っている。
それに、もしちゅらがセクシーの生まれ変わりだとしたら、野良猫なのに人懐こく、あっさり我が家に馴染んだのも納得できる。私と一緒に暮らすために、わざわざ来てくれたのだかもの。すぐ仲良くなれて当然だ。
「ちゅらちゃん、ひょっとしてセクシーちゃんなの?」
そんな問いかけに、言葉の喋れないちゅらが返してくれるはずはない。
でも、新婚旅行先で出会ったセクシーが、私たちの結婚記念日を選んでわざわざ会いに来てくれた。それが答えな気がする。
「本当に来てくれたんだねえ」
目の前の奇跡があまりにも素晴らしくて、感動して涙が出た。
同時に、思ってた以上に早く死んじゃったんだね…とも思ったが、それは言わなかった。
もちろん、真実はどうかわからない。現地に連絡をして、あの後セクシーがどうなったのか聞いたわけでもないし。
それでもなんとなく、私の中に確信があるのだ。
私が家を出て、初めて自分の責任で迎えた子は、そんな奇跡の猫だった。
残念なことに、ちゅらはもともと心臓に疾患のある子だったようで、3歳11カ月という短い生涯を遂げたけれど。
ちゅらが見せてくれた奇跡と、一緒に過ごした日々は、生涯消えることのない美しい思い出だ。
そして今うちで飼っているハチワレのメス猫は、ちゅらとものすごくそっくりな性格と鳴き方をしている…。
ペットとの出会いは、こうした奇跡のオンパレードなのかもしれない。
神の作りし造形美と、私は常々猫のことをそう思っているが、それ以前に彼らの存在そのものが、神の与えた奇跡なのだろう。
⇑ この上に「ペットとのエピソード」を書こう
▶ Rakuten 動物保護団体支援プログラム×はてなブログ #ペットを飼うこと 特別お題キャンペーン
by 楽天グループ株式会社